「やりたいことが見つからない理由」と、「意味を考えることの無意味さ」について!!!
最近、そろそろ何かやろっかなーという気になってきたから、何しようか考えてた。でも、見つからなかった。んで、「やりたいこと」が見つからない理由を考えたら「人のために動こうとしてるから」って分かったわけ。「これをやって喜ぶ人はいるのか?」「これは世の役に立つのか?」そんなことばっかり考えてしまってた。
「人のために」っていう動機はすんげえかっこいいし、良いものだと思うし、一定の尊重はしてる。
だけどね、人のために生きる必要性に縛られて、苦しむ必要はこの世に1ミリもない。もちろん、誤解を恐れずに言ってる。
理由は、人のために頑張ると、どこかで自分に嘘をつく可能性が高くなるから。「人のために頑張る」という動機をもとに動くと、結果的に自分を騙さないといけなくなる可能性が高い。すんごく偏った視野の狭いこと言ってるのかもしれないけどさ、「フィーリングに身を任せる」ってスタンスの俺はそう思う。
だいたいなんなんすか。「人の役に立つことが至高の美徳!!」みたいに喧伝したやつは。古くせえぞ、そんなの。(いや、それは言い過ぎか?)
でも、世の中にはその言葉に感化され「自分も社会のために役立ちたい!」と立ち上がる人もいる。ほぼ何も考えずに直感的に動き出すのは、あえて刺激的に言うと、すごくダサい。「行動」そのものじゃなくて、その「姿勢」がダサい。
また違うところに目を向けると、そんな無責任なことを高らかに掲げられて苦しむ人もいる。それで、みんな存在価値を見出せなくなって自殺しちゃう人が出てくるのよ。
「人のために頑張る」のも良いけど、もっと自分のフィーリングに素直になって生きたい。
一見アホなようだけど、すげえ大事なことやと思ってる。
それとね、何もかも自分がやることに「メッセージ」は無くていい。そう思ったのはこの記事を読んだから。
そう、メッセージなんか無くていい。だって、柿次郎さんのこの記事には、結果的にはメッセージがあるけど、記事を書く前から「みんなの為になにかを伝えなきゃ!」という気持ちは無かったはずじゃないですか。そうじゃなくて、本当の原点は柿次郎さんの「好奇心」そのもの。
メッセージを込めるか否かはどうでもよくて、好奇心を大事にしたほうがいい。
タモリや奥田民生、そして岸田繁の「意味なんか無くたっていいんだよ」という言葉の真意が分かった気がする。「伝える必要なんてなくて、自己満でいいんだよ」ということを言いたかったんだろうね。
一見、風変わりで殺伐とした印象を受ける彼らの言葉は、苦しむ人たちを救ってくれる愛の言葉だったんだなぁって。そう思わないすか?ちゃいますか?違うならそれでいいんですけど。
念のため意味について書いておくと、「受け手」としてあらゆることの「意味」を考え抜くことは大事だけど、「作り手」として「意味」をガッチガチに考える必要は無いんじゃないか。それで苦しむ必要はないんじゃないのか。
そんなかんじです。
昨日の飲み会
昨日の飲み会。場所は渋谷の「やまがた」
メシは安くて美味かった。また行きたい。
「ヒロトって変わってるでしょ?」と友達に紹介?それた。言われたことは良い意味でちょっと「差別化」された感覚があって嬉しかったんだけど。
それとは別に、「変わってる」のはおまえらの方だよってね。だって、おれはただみんなが本当は言いたいこと、心の底にあることを言ってるだけだもんな。それは冷静に考えてみるとおれは至って「普通」だと思うのね
そして、いろいろ話をしてたんだけど、話がオチを迎える度に「おれら(人間みんな)ってほんとしょうもないよなぁ」て思ってた。ずっと思ってた。でも、時間が経つにつれて「世の中そのもの」がしょうもないんだろうなぁって思えてきてしまった。
いや、でもそもそも世界は良いものなのかなー
それを「しょうもない」と捉えてる自分たちがしょうもない?いや、それでもやっぱり世界がしょうもないって時もすげぇある。
結局、どっちも言えるんだろうけど、後者を感じることが圧倒的に多い。
ほんと、しょうもねぇことはいっぱいある。細かいことはよく知らんけど。皮膚感覚で「しょうもない」と思うことが沢山ある。そうじゃないじゃんって。
今日はただの愚痴になっちゃったな
そんな感じです
フィーリングでオールライト
夏休みが始まって、すんげえ自由な時間を過ごしてる。ごく普通に友達と朝までダラダラ飲んだり、福井に帰省したときの予定を友達と立てまくったり、暇なときは青山ブックセンターに行って目に留まった本を立ち読みしたり、さらに言うと家のベッドで好きな音楽を浴びるほど聴いたり。
だいたいそんな感じだけど、メインは読書と音楽。
これを書きながら聴いてるのはスティーヴィー・ワンダーの「Talking Book」。1972年の彼が絶頂期だったころのアルバム。マーヴィン・ゲイに感動してたら同じレーベルだったと知って、3時間くらいマーヴィンとスティーヴィーをずっと流してる。彼らの歴史はすんごい面白い。スティーヴィーの曲は、素直にかっこいいと思えるものばかり。
俺が好きなのは、ロックでもポップでもなく「ソウル」なんだなと分かった。好きな音楽の輪郭がはっきりしてきてめちゃ嬉しい。
とまあ、音楽の好みは見えてきたんだけど、他のことではどんどん曇ってきてる。「他のこと」っていうのは「これからのこと」みたいなちょっとホットな話。
本を読むにしても、「これだな!」と読みたくなる本がない。それはもう、自分の中に疑問や鬱憤がないからってのは分かってる。「読みたい本がない時」は、往々にして自分が止まってるとき。こういうことは何度も経験してきたから「またかよ、おい」と、ちょっと自分を面白がれさえしちゃう。
で、ここまでは今までと同じ。この半年間は、こっから先へさらに深く潜ってきた。「まだ答えを出さないといけないことはあるよなー」と思い直して、色んなことを考えてきたのがこの半年間だったわけ。
でも今回は、もうだいたい答えが見えてきた気がしてて。言ってしまえば、自分の「軸」みたいなものがやっと自分の真ん中に通った感覚。中学校から続いてきたモヤモヤがやっと無くなってきた。当然あらゆるところに欠陥はあるんだけど、しっかりとした根が生え揃ってきたから、あとは毎日水をやればいいやんってね。
これからは少しずつ矢印を外に向けていって、パァーッと行きたい。
これだけ細かいことを考えて、時にはくよくよしてきたんだから、これから先は細かいことを気にし過ぎず文字通り「フィーリング」でいく。
結局、フィーリングが最強なんだろうね。
がっちがちに論理を固めすぎて身動きが取れなくなるのは時間がもったいない。
フィーリングが1番身体に良さそうだし、楽しそうだし、上手くいくことも多いんじゃないかなと、割と本気で思う。時と場合によるのは分かってるけどさ、皮膚感覚で「嫌だ」と思ったらやらなくていいし、ちょっとでもポジティブな動機が湧いたらふらっとその気持ちに乗っかればいい。それで全部オッケーにしちゃえばいい。
しちゃおう。
つまり、フィーリングでオールライトよ。
(ちょっと恥ずかしいな、これ)
そんな感じです。
小沢健二「僕は思う!この瞬間が続くと!」なに1人でテンション上がってんねん
きょう青山ブックセンターで、いつものようになんの目的もなくふらふら本を見回ってたら「タモリ学」って本を見つけて、椅子に座って読んでみた。
まず、タモリさんの印象を適当に乱暴にいうと「可笑しい」だった。音楽全般を良しとしなかったり、笑いの焦点が他の芸人と異なってたりしてね。少なくとも俺には「奇怪」という意味での「おかしさ」は湧かず、モノに対する視点が俺と少し似てるところがあって「あぁ、分かるかも(笑)」みたいな「可笑しさ」があった。
心の表面的な所ではなく、心の奥のさらに隅っこでの共感が多くて、特に「絵を描くことが好きだ」という流れの中で共感は強くなった。下の言葉。
自分でうまく絵を描こうとすると、うまく絵を描こうとする意識や、ある種の表現欲といったものが出てしまうし、そうした欲求があること自体が嫌になってしまう
引用した言葉は特に共感できて、広い本屋の片隅で1人で面白がってた。
「タモリさん好きなんだよね」って友達に切り出すほどでもないし、沢山あるであろう彼のエピソードもほとんど知らない。それでも、暇があればYouTubeで「ヨルタモリ」は見てるし、今日みたいになんにも考えずに本棚を眺めてる時にも彼の本が目に留まったりする。無意識にタモリさんに魅了されてるのかも。ほんと、不思議な感じ。
でも、きょう書いておきたいことは、本に出てきたタモリさんと小沢健二のエピソード。
「小沢健二」と無機質に呼び捨てる理由は、彼のことを詳しく知らないし、今のところ強い想い入れもないから。「フリッパーズギター」って名前は知ってて「オザケン」って呼び名も知ってはいた。それで、コアな音楽ファンからも支持されており、今年のいつだったか、彼が久しぶりにライブをするとなり界隈が盛り上がったことも知ってた。ただその時は、彼の音楽を聴こうとさえせず思いっきり素通りしたのね。
それでも、今日彼についてこうやってブログを書く理由は「世にある音楽に対して否定的な態度を採っているタモリさんに『本当に凄いんだよ、あれ』と言わしめる曲を書いた男」だったから。
その曲が『さよならなんて云えないよ』。
小沢健二の代表曲で彼の世代の人たちはみんな知ってる曲なんだろうけど、俺は全く知らなかった。そんな歌の一節をタモリさんが絶賛してたわけ。下の歌詞。(絶賛してたエピソードもかなり有名っぽいね)
左へカーブを曲がると 光る海が見えてくる 僕は思う! この瞬間が続くと! いつまでも
この歌詞の「僕は思う!この瞬間が続くと!」の一節をタモリさんが「全生命の肯定ですよ」と評し、それを聞いた小沢健二も「本質的な評価をしてくださって光栄です。ほんと嬉しいです…」と感激しきりだった。
でも、俺にはタモリさんの言ってる意味が1ミリも分からなかった。さっぱり分からん。本の中でタモリさんに共感できる部分が多かったのに、ここだけはさっぱり分からなかった。「なんとなく分かる」って感覚すら湧かない。なんで「僕は思う!この瞬間が続くと!」ってとこだけテンション上がってんねん。
青山ブックセンターから渋谷、副都心線、最寄りから家。そして家での2時間。この間ずっと考えてたけど、タモリさんの言ってる意味がさっぱり分からん。ネットの考察を見ても何ひとつ腑に落ちるものがなかった。
勘の良くない人でも分かると思うけど、今回はオチが皆無のエントリだ。
ただ、この疑問にヒントが欲しい。その一心でダラダラと書いた。なんなの、タモリさん。「全生命の肯定」とか、なんなのマジで。
なんかすんません、今日はこんな感じです。
同級生が死んだ
昨日、朝まで友達と家で飲んでて結局朝の7時くらいに寝た。寝て起きたら、親しい友達から「Aくんが死んだ。」ってLINEが入ってて。20歳だった。
俺とAくんは喋ったことはなくて、高校のとき教室が隣だっただけ。でも、Aくんは文化祭でまあまあ目立ってた子でイケメンだった。多分、あっちは俺のこと知らないだろう。
そんな薄っぺらい関係性だったんだけど亡くなった知らせを聞いたら、付き合いの長い友人が死んだ時みたいな気持ちになって。なんというか、確かに関係は薄いし、仲の良い奴らから見たら「おまえ誰やねん」ってなると思うんだけどね。
俺、中3の時におばさんが50歳で亡くなって、その頃から全く赤の他人でも「亡くなった」という知らせを聞くと、まるで自分の身内が死んだかのように悲しくなって落ち込むようになった。亡くなった本人や遺族の気持ちをすんごいリアルに想像しちゃって、落ち込んでしまう。テレビで有名人が亡くなったということを聞いても、同じようなことが起きる。
ひとしきり悲しんだ後は、ちょっと冷静になって高校の担任の先生が言ってた「卒業したら同級生が死ぬってことは十分起こりうるからな」って話を思い出した。その時は「まあそれはあり得るよなあ」という程度でふわりと受け止めてたんだけど、いざこうなるとやっぱりなかなか重い。
連絡をくれた親しい友達はA君と仲良しだったらしい。俺は、その子にかける言葉が見つからなくて、「悲しいなあ」とだけ送ってLINEは終わった。
俺も1年前にいとこが30歳で亡くなったばかり。
んで、それから周りの友人に言ってきたことが1つだけあって。それは「人って、本当に死ぬんだよ」ってこと。
これを聞いた友達は、みんな「当たり前やん?」って顔をする。そう、そんなことはみんな知ってる。それでも、俺が1番言いたいのはそれなのよね。亡くなってしばらくしてから「あ、もう会えないんだ」ってふと気付くときがくるわけ。
会いたい人がどんなに遠い所にいたとしても、本気出せば必ず会える。会うことくらいは絶対できる。でも、死んだら会えないの。マジで会えない。超当たり前だけど。
誰かが亡くなると「友達を大事にしよう」とか「毎日一生懸命生きよう」とか多くの人は言う。それは絶対に正しくて異論は一切ないんだけど、友達みんなに言いたいのは、「まずは、『人は死ぬ』ってことをちゃんと認識することが1番大事だと思うのよ」ってこと。
それを腹の底から認めることは俺にとってすんごい残酷なことなんだけど、1番大事なことのような気がしてる。
「死」は、当たり前の尊さが1番分かる。
その尊さが分かれば、今回の彼の死がほんの少しは報われるんじゃないかなって。
1人死んでも世の中はいつもと全く変わらないという虚しさを覚えながら、今日はA君のことを考えていようと思う。
そんな感じです。
ブログでレポートは超余裕になる
やっと最後のレポートが終わった。提出するタイミングでWi-Fiの電池が無くなっちゃって、いま急いで家に向かってる途中。これで時間に間に合わず提出できなかったら5年引きこもる。
結局、きょうは休憩挟んで5時間レポート作成に費やした。「気付いたらこんな時間」って感覚は久しぶりで、めちゃくちゃ集中してたな。
完成したレポートを最後に読み返してみると、けっこうちゃんと書けてるなぁと自画自賛した。
A4用紙5枚分って、俺にとってはなかなかの分量で書く前はマイナスにしか考えてなかったんだけど、終わってみたらそんなに苦でもなかったことと、レポートの質に自分で驚いたってわけ。
これってもう、間違いなく毎日続けてるブログのお陰だと思うのよね。
言いたいのは、ブログを書いてると「書くスピードが上がるぜ?!」とかそんなんじゃなくて、本質を見ようとする姿勢が習慣となり、それを順序立てて構成する力が本当に知らぬ間に少しずつ身に付いてたってこと。
もっちろん、まだまだ文章を論理的に書くことは下手くそで、実際に「おれ本当に頭悪いわぁ。文字で言いたいことを全く伝えられないのよ。」と、悩みを友達に漏らすくらい雑魚なのは分かってる。
だけど、やっぱり最初と比べたら完全に変わってきてる。大学のレポートで苦しんでる友達を見ると、ちょっと優越感に浸れるくらいには成長したんだなぁってね。
なにかを続けることって大事なんやで〜っていう自戒と、レポートに苦しんでる人は毎日ブログ書いたら超余裕である程度のレポートは書けるようになるさってことを言いたかった。
全体的に単なる自慢になっちゃったけど、まあいいか。
そんなかんじです。
花火大会に、行かなかった
きょうは、隅田川の花火大会。
って言ってるけど、きょう花火大会があることすら知らなかった。まだレポートが残っててそれ完成させよ〜なんて呑気なこと思ってた。そしたら、ツイッターに「隅田川行ってくるー!」みたいなことを呟いてる人がちょろちょろいて初めて知った。
それが分かってからは「なーんでおれレポートなんて書いてんのかなぁ」と落ち込み始め、一気にレポートを書くペースが落ちた。
開き直ろうとしたけど、開き直れない。おれの悪いところで良いことも悪いことも一旦考え始めたらそれだけをずーーーっと考え続けちゃう悪い癖だ。良く作用するときもあるんだけど。
寂しいことに彼女もいなくて男3人連れて行きたいってほどでもなかったから、まあ良いんだけどねぇ。こういう寂しいときにYouTubeのお笑いはめちゃくちゃ効く。レポートも放ったらかしてダウンタウンが出てる番組を4時間くらい見てる。
ちっさい6畳の部屋で、花火大会の夜に1人でケラケラ笑ってるのは画的にかなりヤバイんだけど、そんなヤバさもちょっとおもろいってことにしとこ。
いやぁ、「いまは彼女なんていらねぇよ」って半年前にフラれてから言い続けてきたけど、そろそろ欲しいかもな。傷付くの怖えしなぁ。まあ、いっか。その循環よね。
しょーもない1日だった。
そんな感じです。
ダウンタウンなう 7月22日 16.07.23 - YouTube
どっちにしろ、夏だ。
(2日くらい前の昼間に飲んだ夏みかんビール、うまかった。場所は渋谷の「factory」)
大学の前期が終わった。
まだレポート1個残ってるけど、もう前期は終わり。この7月はテストに追われてめちゃんこ不毛だったけど、テストは無事に終わった。「んじゃまたね〜」っていつものように友達とさよならして「あ、今日最後やん」ってなる学期末あるあるを今年もしっかり繰り返した。
少しだけど、色々書きたいことあってうにゃうにゃしてる。ここに書いても良いのか、はたまた「ちょっと聞いてくれよ〜」と友達にLINE送って飲みながらグダグダと話すか。1000円くらいする美味しいビールじゃなくて、普通の生ビール飲みながらでいいから話聞いてもらいたい。
まぁどっちにしろ、夏だ。
今年の夏休みは大っきなイベントが2つあって、想像しながら歩いてると帰り道で1人になっても寂しくねぇわけ。
イベント以外は、バイト以外特に予定を入れてない。まぁ適当に「明日空いてる?」ってかんじで飲みに行ったり、また友達と下北に行くんだろうな。飲みたいビールもあるし、買いたい服もあるし、話したいことがたくさんあるし。予定は決まってないけど、やりたいことはたくさんある。やりたいことあるって、すげえ良いっすよね。まじで。
高校の時みたいに身構えて「夏休みの予定」とか立てずに、気まぐれに身を任せて身軽にひょいひょいと過ごせる夏にしよ〜〜。
まずビールだな。美味ぇビール飲みにいきたい。
ローリングストーン8月号
テスト終わった後に、factoryでリバティー・エールを昼の1時からかちこんでちょっと酔いながら次の試験の勉強。もちろん手に付かなかった。
んで、渋谷のジュンク堂に行ってローリングストーンを買った。コムアイの特集がすげぇいい。コムアイ自身がいいのか、ローリングストーンが良いのか、よく分からんがとにかく良い。こんな書物を700円で読めるのは最高。
感想はまた今度書くかな。
とにかく良いので、読んでみてほしい。