浪 漫 書 簡

昼寝とロックンロール

「自称・芸術家」のつまらなさ

最近、ヘルタースケルターって映画を見まして。

別に、これがオレの映画論だ!!!みたいに掲げるわけではなくて、ただふつうに感じたことがあったんです。
それは、映画って見る側のレベルが高くないとちゃんと評価されないし、売れないんじゃない?っていうこと。
今回観たヘルタースケルターって、物語としての映画って観点からいうと正直あんまりよく分からない。まあ、解釈が難しい映画だったと思うんですよ。「監督・蜷川実花」っていうだけで、意味が分からなそうな映画なんだろうなあって思ってたんですけど、案の定難しいものでした。
けど、やっぱり彼女にフラれてなにか報われたいって思ってる、いまの僕にとってはめちゃくちゃ刺さるシーンがいくつかあって。主人公が同性のマネージャーに性行為を求めてたりするシーンは、一生忘れられないくらいの衝撃で刺さってきたんですよね。刺さった理由は前に書いたブログに書いてあるので、ここでは書きません。

結局なにが言いたいのかっていうと、結論としては2つあって。

1つは、映画など芸術作品って、見る側の気持ちが敏感、あるいは俗な言い方をすると“豊か”じゃないと成り立たないんだなあ、と肌で実感できたこと。肌で実感できたことが何よりも大きい。これって、芸術まわりの話ではよく言われてることだと思うんですけどね。でもそれを、こんなレベルで実感したことは人生で1度もなかった。今まで芸術作品をみて泣いてる人の気持ちが一切わからなかった自分が、ちょっとはそれを理解できるようになった。これはやっぱり嬉しいし、気持ちよかった。
もう少しいうと、豊かな国ではヒトの感性も豊かになるから、映画などの芸術が発展する。他にもお金の問題とかは色々ありますけど、肝はそこだと思うんですよね。
ありふれたことを言ってるけど、今まではちっとも語れなかったことだから、素直に嬉しい。

2つ目は、表現の定義が分かったこと。
僕の中での表現の定義は、表現せざるおえない、つまり表現しないと一歩も前に進めないって状況から生まれたものが「表現」って行為であり、創作物だと。なにかを表現する人って、表現せずにはいられなくなってなにかを創っていると思うんですよね。
違う言い方をすれば、なにかのために芸術をしているんです!とか言ってる人は、その人が芸術家と名乗っていたとしても、それは「芸術」じゃないし、「表現」じゃない。だって、ミケランジェロとかそうじゃないですか。若い時から死ぬまでずっとなにかを創ってるんですよ?死ぬまでとか、おかしいでしょ。誰かのためとか言ってたらあんなにずーーっとモチベーションが続くはずがないと思うんですよね。

と、まあ毎回思ったことを殴り書きしてるけど、今日はこんな感じです

ではまた〜〜