浪 漫 書 簡

昼寝とロックンロール

福島に行って被災者の方から聞いたこと

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震災から5年たったきょう。

4ヶ月ほどまえに東京から福島までヒッチハイクをして旅行してきたんですけど、そこで上野さん、トラックのおんちゃんなど、被災されたお二人の話を聞かせて頂きました。


こんな若造の自分にできることなんて皆無だと思ってます。もちろん、黙祷など祈りを捧げることはできます。そして、僕も黙祷はさせていただく。祈りを捧げることになんの異論もないし、ツイッターで祈りを捧げてる人たちを批判するつもりなんて微塵もない。でも、僕にはもう少しできることがあると思ったんですね。僕には上野さんやトラックのおんちゃんからお聞きした体験談という大きな「財産」がある。そして、それを誰かに伝える手段ももってる。だから僕はこうして文章という形でこの世に残して、忘れてはいけないことを世界中のだれかに伝えようと思いました。

量はそんなに多くないかもしれませんが、聞いたことをそのまま記してあります。

トラックのおんちゃん、上野さん。
言葉にするだけでも辛い話をして頂いて本当に感謝しています。「感謝」ということばが適切かどうかは分かりませんが、御礼は述べさせて頂きたいと思っています。本当にお世話になりました。

ありがとうございました。


以下、転載文です。

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2015年 11月15日(日)

13時間かけてヒッチハイクで福島県にいってきた。
福島は紅葉していて景色もご飯も最高な県でした。でもここでは、ほぼ無計画の苦労したヒッチハイク話を書くつもりはない。被災者の方の話が心に刺さったままだから、ちょっとでも整理したいがために書き記したいと思う。

今回お会いできた被災者の方は2名。
運送業トラックのおっちゃんと、上野さんという南相馬市の方。
たまに話が聞き取れないくらい訛が強かったトラックのおっちゃんは、小学校低学年のお子さんが2人いて、郡山市に住んでいる方。おっちゃんの話で今の福島が少しわかった気がする。今現在、原発の復興は全く進んでいないそう。放射能で人は原発内には入れず、高熱すぎてロボットも入れない。手がつけられない状態だそう。政府は、山に溜まった放射能が含まれた土を吹き飛ばして「除染」をしているらしいが、それも結局空から降ってくるので全く意味がない、ただのパフォーマンスだあ、とおっしゃっていた。
そして何よりも子供たちが心配だと言っていたのが印象的だった。自分の身体は別にどうだっていい。子供たちの将来だけが心配。
お子さんが心配だとおっしゃる被災者の方はテレビで何度も見たことはあり、どこか他人事のように聞いてきたフレーズだが、実際に眼の前で聞くと、押し潰されそうなくらい重い言葉だった。

そして翌日は南相馬市の上野さんという方を尋ねた。
最初から上野さんに会いに行こうとは全く決めておらず、タクシー運転手に「津波で破壊された家を今も残してる人がいらっしゃるから、その方のお家に行ってみる?」とお誘いをいただいたので行ってみることに。

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そのお家は一階部分が激しく壊れていて、解体間近のお家。元は玄関だったとところには鈍角に曲がった柱、その隣には壊れた三輪車や小さな可愛い人形が並べられていた。
破壊された家をしばらく見ていると、中から家主の上野さんと奥さんが出てこられた。「どんな話が聞きたいかな?」と笑顔で迎えてくれた上野さん。僕たち3人は破壊された家に恐怖を感じていると、上野さんが静かに話し始めた。
「俺たちは、親父と当時3歳だった息子が今も行方不明で、娘は遺体で発見されました。」

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壊れた悲しげな三輪車を眺めながら、その言葉を聞いた僕は何も言葉が出てこなかった。ただただ聞いているだけだった。原発から21キロくらいの距離にある上野さん宅は、震災発生当時、自衛隊が来たのは地震発生から約1ヶ月後になり、その結果お子さんたちの捜索が遅れました。しかも捜索はたった1日で終わってしまい、すぐに自衛隊たちは隣街へ行ってしまったそう。上野さんは4年経った今でもその時の国の対応に、とてつもない怒りがこみ上げてくると言っていた。
もう少し探してくれたら助かる命だったかもしれない。実際に奥歯が砕けてしまうほどの悔しさと怒りが当時はあったそう。
僕はおふたりの話を聞いて、復興が進んでないとか言うつもりはない。考えたところで、それは僕の力で変えられることじゃない。今の僕ができることは今回お聞きしたお話を、自分の周囲に正確に伝えて、日常ではどうしても忘れがちである震災のことを、記憶から風化させないことくらいしかできない。自分の3歳の息子が今も「行方不明」である方がいらっしゃる。そんな方がいま同じ国で生きている。そんな方の存在を知った以上、僕は何も考えずに、無為に毎日を過ごすことはやっぱり率直に「まずい」と思ったし、自分の視野をもっと広く持つべきだと思った。自分も、今年30歳で急死した従兄弟がいるため、大切な人を失った人の気持ちは、大変恐縮だが少しはわかるつもりでいる。

上野さん宅はもう少しで取り壊しになるそうだが、5月には庭のお花畑の上に、たくさんの鯉のぼりが飾られる。現在行方不明の息子さんのことを思って、鯉のぼりを毎年出してるんですよ、とおっしゃっていた上野さんの顔にはわずかながら笑顔が見えました。

こんな感じで、焦りと苛立ちと使命感を感じたヒッチハイク旅行。喜多方ラーメンなど美味しいご飯もたくさん食べられて幸せな旅でもあったが、貴重なお話からたくさん学んだことがあった。

決して忘れないであろう旅行になりました。