いま全人類に必要なのは「根拠の無い自信」だけ
俺、いや、いまの世の中を生きてる人に必要なのは、根拠のない自信やと思うわけ。
なんでもそう。何かをやるにあたって必要になるのって「確固とした自信」じゃなくて「根拠のない自信」。
成功を「成功」とちゃんと認識するのって大事
最近は「根拠のない自信だけを持ってなんでもやってみろ」と、自分に言い聞かせてるの。
んじゃ、根拠のない自信を持つためには何が必要かっていうと「小さな成功体験の積み重ね」。
ぼんやりと考えて「自分に『小さな成功体験』ってあるかなぁ…?無いなぁ。』って落ち込んでたんだけど、ちゃんと振り返ってみたら意外とあった。
俺にとっての「成功」は、努力が実を結んだとき。
俺は、小中と野球をやってきた。小学校の頃は2チームで野球してて、小学校の県大会でベスト8。別の弱小チームのエースとして町内3位。
中学の時は、エースナンバーをもらった。高校では成績底辺から、上の奴らよりも最終的には偏差値の高い大学に行った。
こうして並べてみると各ステージで成功してる。
要は、周りから見たら「成功」と呼ばれるものでも、自分で「成功」と認識してない時が多かったということ。
振り返ってみると「成功」と呼べるものは多かったけど、自信に繋げられてなかったわけ。
それはきっと、他人と比較して「やっぱそうだよね。俺、大したことないよね」ってなってたから。いまもこういう考え方をする時がある。
さっき羅列した成功は、間違い無く自信を持っていいこと。努力して達成したことだから。
「あん時の俺、最高だったんだよ」ってみんなに言っていい。
しかし、そこでも俺は、遠慮がちな性格だから「周りの力もあったから」となる。もちろんそれはとても大事なことで感謝はするべきなんだけど、俺の駄目なところは、完全に自分を消してしまうこと。
もっと感謝と同じくらい自己主張をしてもいいんじゃないかなーって。自己主張って自信に繋がるから。
でもね、俺はどうしても表に出すぎることを躊躇っちゃうのよね。それは周りから嫌なことを言われることが多いから。「調子に乗るな」「たまたまだろ」などの言葉が怖かったし、いまも怖い。
たとえ「過去のこと」だったとしても自慢するべき
昔の自慢をすると「過去のことだろ?」とツッコむ人がいる。その通り、それは「過去のこと」。でもね、たとえ過去の自慢でもいいじゃねぇか。
過去の成功体験を語って「町内3位?w」「県大会でしょ?俺、全国大会。」みたいに言ってくる人は無視していい。「うっせえよ、黙っとけ。」と心の中で思っとけばいい。
そういう人は、相対的な世界で生きてる人で、俺が住んでる世界とは違う。住んでる世界が違うだけだから、黙れって思った後は「あ、そっちの人ね。了解。」って軽く流しておけばいい。
自慢はさらに自己肯定感を高めてくれるもので、ちゃんと扱えばすごくいいものになる。
ただし、ダメなのは過去に頼って今の自分を正当化することで。ここの棲みわけは大事。「今までの俺はすごかったから今の自分も最高だ」なんて人は、アホだ。
自慢は”時と場合に応じて”していくべきものだ。TPOをわきまえないとただ気持ち悪がられるから、気を付けないといけない。
そこをクリアしたら、自慢ってものは、たとえ過去のものであってもするべきだ。自分のために。
自慢は「未来の糧」として前向きに語るべきもの。
「今の自分を守るためのもの」として扱っちゃダメ。
成功をちゃんと「成功」と認識し、それを語り自信に繋げ、根拠の無い自信を得る。
そんな感じです。
相手より、絶対に自分の肯定の方が大事よ
自分のバランスを保ってくれてるのは音楽やなって思った。
好きな音楽を聴いてるときの自分が大好きでして。
まぁ別に何でもいいけど、音楽とかそういうもので自分の均衡を保てることって、なんていうか、感謝してぇな。
こうやって俺みたいに何かに救われてる人って多いと思うのよね。
そんで自分が感動してるもので「救われるなにか」を周りの人に与えられたら、すんごく楽しいと思うわけ。
ひょっとしたら、良いものに出会えるときって、孤独な時なのかも。
自分を助けてくれるものが本当に良いもので、それに出会ったときは「ありがとう」の気持ちが湧いてくるんじゃないかな。
「こんな俺の相手をしてくれるなんて、お前良いヤツだな。」の気持ちが。
それが正真正銘の愛だと思う。
孤独って、やっぱり寂しいし、時にはつまらないから好きではない。
でも、孤独を投げ出してカオスの中に飛び込んでいくよりも、孤独をちゃんと大事にしてあげることが良いときもある。
要は「ダメだ」と自傷的になったときに、そのダメな自分を肯定してあげることで、何かが始まったり見通しが良くなることもあるんじゃねえのかなって。
どんなにダメな自分でも肯定してあげること。
そうすれば何かが良くなる気がした晩メシだった。
そんな感じです。
「なにかに追われる感覚」は人生でゼロにしたい
テスト期間でいっちばん思うのは何かに追われるのはもう御免だってことで、7月10日あたりからずーっとテストに追われてる感覚。きのうも書いたけど、こういう感覚はほんとうに苦しい。テスト自体も高校より負荷が大きくて、正直まあまあキツいんだけど、追われてる感覚ってのはテストそのものよりストレスが大っきい。めちゃくちゃ身体に悪い。
テストをポジティブに捉えればね、良いんだけどね。学問的な勉強はむかしから嫌いだ。ハマるときはハマるけど。
とりあえず、単位もやばいんで最後までやり抜くってことは忘れずに7月過ごそ。
そんなかんじです。
不安はダメ。
不安は身体に良くないなー、嫌なことは先にやらないといけないあーって日だった。本当、不安は身体に貯めてると良くない。
心臓きつかったもん。
7月のブログが適当なのはテスト期間だからってことにしとく。
寝る。
松浦弥太郎さんに物申す
「コミュニケーションの基本は、相手をハッピーにすることです」と、松浦弥太郎さんが言ってた。これを聞いた2ヶ月前の俺はめちゃくちゃ感動したんだけど、最近はそうじゃないだろと思う。ちょっと前の俺だったら「あの松浦弥太郎に異議を唱えるなんて。んなアホなw」と片付けてたけど、今はそれどころじゃない。
最近は、「相手をハッピーにすること」を基本に据えると、どうしても自分を殺しかねないないんじゃないかなって思うんすよ。
「相手をハッピーにすること」を否定するつもりはない。ないけど、それだけを考えていたらどうしても自分を表現しにくくなって、いずれ我慢ができなくなる。だって、コミュニケーションの本来の役割って自分の欲をより効率良く達成することじゃないですか。
例えば、古代の人たちは「食欲」って欲望を満たすために狩りをしてた。んで、それをより効率よく達成するためには仲間が必要で、そこでさらに言葉を交わしてコミュニケーションをとらないといけなかった。
コミュニケーションの本来の役割は、我欲を効率よく達成すること。
元の話に戻すと「相手をハッピーにすること」ってのは、軸を「相手」に置いてるから、本来は軸が「自分」にあるはずのコミュニケーションの役割と相反する時がいずれやってくる。だから、俺みたいに我慢ができなくなってくる。ということは、コミュニケーションの基本は「自分をよりハッピーにすること」って認識しておかないといけないと思うのよ。
でも、現実はいわゆる「自分語り」を”しない”ほうが円滑に進むことが多い。相手にできるだけ多くの質問をして喋らせることによって気持ちよくなってもらう。それが「コミュニケーションの基本」として謳われることが多い。
でも、俺はそれと反対のスタンスを取るべきだと思うわけ。まずは、喋ってて自分がハッピーになることを話していく。自分が好きなことを喋って、それを心地いいと感じる人が集まってくることをコミュニケーションの理想としたい。
作家の桐谷ヨウさんがブログで書いてたことが俺の言いたいことと似ていたので引用しておく。「ブログ論」ではあるんだけど、コミュニケーションにも通ずるところが少しはある気がした。これで締めようと思う。(桐谷さんはみんなが抱えるモヤモヤをいつもスパッと言葉にしてくれて、本当にかっけええと思う人)
さて、開設した時の動機が消滅してしまった当ブログだけど、最近考えているのは「俺の考え方」を好きに書いていこうということである。それが心地いい人を集めたいという思いになる。
引用元:
書籍を出すまで俺が考えていたこと、役割を終えたブログの今後について。 - My Favorite, Addict and Rhetoric Lovers Only
コミュニケーションに関して答えはないんだけど、整理しておくのは俺にとってすげえ大事なことだったから書いた。
そんな感じです。
フジロックフジロックフジロックフジロック
フジロックに行きたい。とにかく行きたい。タイトル的には「フジロック行って興奮が冷めない!」みたいなノリだけど、おれがいるのは苗場じゃなくて家のベッドの上。
テスト勉強とかバイトとかブログとか恋人とか(いないけど)「そんなもの全部どうでもいいんじゃい!」と捨て去って苗場に行きたい。
ベッドの上で「#フジロック」のツイートをただ眺めてるだけなんて、25歳の童貞よりもはるかに虚しい。
テスト勉強なんて手につくはずもなく、ただひたすらYouTubeで好きなアーティストたちを見て歌い、タバコを吸ってお茶を飲むの繰り返しで4時間経った。
フジロック〜〜〜〜…
来年行く。黒霧島をリュックに5本ぶっこんで新潟まで行く。
友達たちよ、準備しとけ。
昨日に引き続き、要はテストからの逃避。
『愛に溢れた世界の作り方 とは』
大学が終わって、いつものように副都心線の6番ホームから電車に乗った。
昨日のエントリで「愛だけがある世界がいいぜ」みたいなことを書いて、改めて読み返してみると、自分で書いた文章なんだけど頷きながら読めたのよね。毎年夏に「愛は地球を救う」って聞くたびにチャンネルを変えてた自分が、「愛最高」みたいなこと言ってるんだから、変化してる自分に感心した。それはそれで良かったんだけど「愛だけがある世界、誰か作って?」って書いてあるのを見て「いや、おまえがやれよww」って思わずツっこんじゃったわけ。
「愛に塗れた世界」ってどうやったら作れるんすか?いや、大真面目な顔して聞いてるんですけど。笑っちゃうし、友達に読まれたら顔を真っ赤にするようなこと言ってるのは分かってるけどさ。どうしたらできるんすか。
グーグルに聞いたらわかる?んなアホな。
さすがに「愛だけがある世界」ってのは無理かもしれない。すこし気持ち悪いし。んでもまぁ「愛がたくさんある世界」はイケる気がしないでもないのよね。
周囲に愛を振りまく?毎朝マンションの清掃してるおばちゃんにありがとうとおはようございますを言う?
どうしたらいいのーって、アイスのジャンボをかじりながらぼーっと考えてたら家に着いた。
要は、期末テストからの逃避。
今日はそんな感じ。
愛だけで良くないっすか?
読んでる途中泣きそうになったなあ。
なんかもう、半年前にフラれた彼女にもっとまっすぐに「好き」と言っとけば良かったなあとか、あの時母さんに「さんきゅー」のひとことくらい言っときゃ良かったとかね。
俺はいつも感謝を伝える時に、素直な言葉を使わずに、恥ずかしがって言葉を捻じ曲げて伝えようとしちゃう。
それはやっぱり、ダセえ。
その先にある世界は良いものだろう。
アメリカ人みたいに、みんながいる前でも恋人や友人に対してド直球の愛を伝えることができるようになりてえ。ならないと、生きてることがもったいないとさえ思う。
やっぱ、あいつらかっけえよ。マジで。
愛を伝えることが、どれくらい美しいかってことを想像しただけでまじ泣けてきた。
マジで、愛だけで生きていける世界がいい。そんな世界をだれか作ってくれないすか?
綺麗ごとだけど、綺麗ごとだけ言いながら死にてぇよ。
「綺麗なものを想像して泣きそうになる自分を、ちゃんと肯定してあげることが愛なのよ」なんて臭いことを言うのは恥ずかしすぎるけど、きっと今の自分にはそれが大事。
主語が大きくなりすぎたけど、これが本音よ。
感動してるときくらい、臭いこと言わせてほしい。
書いてくれた三浦さん、ありがとうございました。
汗だく、銀行、バイト
朝、「起きれないから泊めて」っていう理由で友達んちに泊まって、テスト2つが終わった。まだまだ残ってる。
昼からはバイト着を買いに渋谷を歩いたんだけど、とにかく暑い。渋谷ですれ違う人たちは全然汗だくじゃなくて、俺だけ汗だくなのは恥ずかしかった。
財布に1000円しか入ってないことを思い出して、三井住友に寄った。街で1番涼しいのはスタバでも電車でもなく、銀行だってことが分かった。銀行、まじ最高。人も少ないしね。軽く腰掛ける程度の椅子があれば合格。
暑くて友達としゃべってる時も頭がぼーっとするけど、夜はバイト。西麻布まで歩いて行く。夜も暑いかな…。
辿り着けるといいな。